ringoさん
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【訃報】「めいろま」こと谷本真由美さんが父親の死去を報告「父は高次脳機能障害でした。長い長い介護が終わりました」
父が急変した
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日本は3時なんだね。お母さん起きれたかしら
父が亡くなりました。享年78歳。苦しまずにすっと逝ったみたいです。今多分川を渡っているところ。
家族もお見取りに間に合わず。で昼間に5分だけ面会。もうヨレヨレで何も分からず
長い長い介護が終わりました。ごめんね。本音だとちょいほっとした。もう皆疲れ果てていたから。お金も心理的にも。
叔母もあちらに。父もあちらに。次々に皆遠くに行ってしまったなあ。そしてコロナ。時代の変わり目だな
@May_Roma コロナとは直接関係はない医薬品製造ですが、毎日生産ラインを回すために出勤しています。そして私は一児の母でもある。在宅勤務出来ない職種で生命に関わる仕事なのでリスクを承知で出勤しています。振袖やスーツで式典することが誰かの命に値するほど価値があるものなのね‥?
みなさまより次々にお悔やみのメッセージいただいております。全部返信できませんがありがとうございます。皆様のお心が伝わります。
@May_Roma ご冥福をお祈りします
うちも昨年父を亡くしました。家から徒歩5分の病院に入院していましたが急変し、誰も間に合いませんでした。コロナでほとんど面会もできず可哀想でした
そういう方が沢山ですね。皆同じですね。コロナはどうしょもないなあ。 t.co/xL9Oe7NQJb
今自分にできることは感染せずに生き残ることです。これは戦争なんだ。
覚悟していたから不思議とあまり悲しくはない。仕方ないかなという感じ。
あっちにいってまた海に潜れたらいいね。
父は2001年の5月に居酒屋で絶対中に倒れて、ひどい脳挫傷で生死を彷徨って生き延びて一時期は良かったのですが、高次脳機能障害になり、さまざまな奇行を繰り返した上で認知症がではじめて、震災直後に自分で掘った池に落下して低体温症で死にかけて認知症が悪化して寝たきり状態でした
だから父はここ10年ぐらいは寝たきりで。孫には何回か会えましたが、一緒に遊べず。でも喜んでいましたね。最後会った時はもうよく分からない状態だったけど。誰が会いにきたかよくわかってなかった。あれは辛かったな。 t.co/cEceISu9H3
自分へ海外で働けたり、運良く本はだせたり、ある程度の賃金は稼げるようになったけど、ここ20年の苦しみや悔しさは言葉にできないようなもので。元気だった父はバブル崩壊と左遷で頭がおかしくなってしまい家を捨てお金を使い果たし、実家は揉め事が絶えず、とうとう倒れて要介護になり。辛かったな。 t.co/ye5YqBscIN
自分は正直言って、本が売れたとかそれはもうどうでも良く、数千万円かかっても狂った父の脳を治し、すべてが1990年ごろに戻ることがたった一つの願いでしたね。それが一番悲しいことだったから。あれから全てが壊れた。様々な嫌なことをたまに思い出し眠れなかったりする。定期的に発作みたいに。 t.co/Qnmg9eWcxL
バブル崩壊で会社が危機的になり新規開発をやっていた父の部は全て解散になり、東大や京大での開発者達が営業やカスタマーサポートに左遷になり、父も50名近くいた部下を全て失いたった一人で発電機を治して歩く閉職に追いやられ精神的におかしくなってしまった。 t.co/dW0cCOMzEl
おかしくなった父はギャンブルにはまり一日30万円や40万円をパチンコに注ぎ込み、近所で不倫、家の庭を露天風呂改造に没頭して百万円単位を注ぎ込み家族がやめろと言うとドリルや大工道具を投げつけ、我々はその寒くて外から丸見えの狂った風呂に入らねばならなかった。 t.co/rUdkLZYTUI
さらに父は本格的に左遷になり会社は首になって地方の協力会社に飛ばされそこでも孤立。退職金を全て使い込んで詐欺同然の古民家を買ってしまい、そのことで大喧嘩になり家は一年中口論。実は自分は殴られたこともある。自分はあまりの辛さに海外に逃げた。いられないから逃げた。 t.co/f8PEwJ87nQ
そして騙し騙しやってきたが、弟は死にかける大事故にあい事故の当事者は無保険で逃げた。その直後、父は倒れて脳挫傷で死にかけ、金がないから母が入院費や治療費を払った。家には金がなかった。皆父が古民家に注ぎ込み、池に鯉を書い、改修日に注ぎ込んでしまったから。入院費さえなかった。 t.co/75nfC00Ocd
自分は留学中だったけど、それは半分は自分で借りた借金だった。弟は事故、父は脳挫傷でさらに狂ってしまい病院を出る時は駅で電車を引っ掻いて吠えるほど狂っていた。だからすぐに働き始めて稼がなきゃならなかった。だから金ななりそうなネット業界で働き始めた。同級生はみなフワフワ遊んでいた t.co/9zYJatfJ0p
もう疲れ果てました t.co/IrycCfNJBg
遺体安置所に搬送されました。日本は仕事が早いなあ…
もう放火しないからほっとしました。一時期放火とか交通事故とかやらかしました。 t.co/BC4Hklm4WZ
父の死は悲しいのだけど、バブル崩壊と共に父の人生の歯車が狂いだし、家族が巻き込まれ、日本の失われた20年と同じ期間、壮絶な苦しみと悲しみに包まれていたことが悲しい。ずっと不幸の連続だった。でも自分は家を出て切ったと昨年亡くなった叔母が言っていた。叔母は直感が強かった。
叔母は親の離婚と自営業で凄く苦労したが、直感が強く、父がまだかなり元気で仕事も頂点だった80年代後半に、将来ボケるよと予言みたいなことを言っていたが当たっていた。叔母はなぜあんなに鋭かったのだろう。
叔母は様々な人をみているから、何が予兆を感じていたのだろう。就職先や知り合いのことを聞いてもコメントが当たっていた。知り合いの小さな会社に就職しようかと思い簡単に背景を話したらそこは潰れるから辞めなさいと言っていたが実際そうなった。
叔母は父と母が結婚する前にちらっと会い、あの男は外面は良いが嘘をつく癖があるよと言っていたが、それは本当だった。父は自分が小さい頃は良い父だったが、母には様々な嘘をつき、色々と隠された生活があったようだ。しかし会社では人当たりが良く知る人はいなかった。
父の育ちは昭和のエリートで、外見ではハイソな坊ちゃんだが、外の人や会社の人は彼のギャンブル狂いについては知らなかった。また高校の頃から友達と芸者の置き屋に通っていたらしい。友達の一人が著名政治家の息子で、彼には腹違いの姉がおり、芸者だからその縁でプロの女性達とお付き合いがあった。
父は外見は良い人で話も面白かったが、色々隠された部分もあり、二面性がある感じだった。会社やマスコミでは良い人で通る人には往々にしてそう言う人がいるらしいことをしったから、自分は良さそうに見える人や意識高い系を疑う癖がある。
父の女性関係についても、自分は中学生の時に気がついていた。父は娘の勘の良さはある程度知っているらしかった。一度電話であの女に会うのは辞めてと攻めたことがあった。でも辞めていなかった。それがわかったのは弟が瀕死の事故にあった夜で、車で病院に向かう途中にその女に電話していた
それらのことを家族に話したのは父が呆けてからだ。親戚も知らない。親戚のうち、金や人で苦労してきたいわゆる労働者階級の人々は父の二面性に早くから気がついていた。しかし貧乏暮らしの片親育ちの母は、父の二面性にグッと我慢していた。父は金はないが紙の上ではエリート家庭の人間だっらから
実は自分の夢は、父と孫が庭や海や山で沢山遊んで大工仕事教えること。父が昔のように元気になって。素潜りで10メートルは潜る人だったから。もっと早く孫に合わせてあげればよかった。あと10年早く。ただただ後悔。
父は子供が大好きだったから大学生の頃は近所の子供を集めて野球チームの監督をやり、20人以上いた甥っ子や姪っ子とわいわい遊んでいた。兄弟が7人もいる大家族で育ったからいつも沢山の人がいるのが好きだった。孫は一人しかいないし生まれた頃はすでに要介護だったから悪いことしたな。
父は大家族で育ったから、会社でもいつも沢山の部下の方や同僚の方とわいわいやるのがすきで、週末はほぽ誰かが遊びに来ていた。一度家に最高38人の人が来て麻雀大会をやったこともあった。世話好きで会社で部下の方の縁談を世話したり、家族の相談にのったり、会社が延長した家族みたいだった。
だからバブル崩壊で部署が解体され、会社の派閥闘争に負けたことは相当答えたらしかった。一度電車で母と父が会社の人と鉢合わせした時にかなり侮辱的な態度をとられたらしかった。全てを会社に捧げてきたのに裏切らきもちだったんだろう。会社は父を裏切り全てを破壊した。そして父は狂った。
そんな狂った父の姿を見ていた自分は、当時中高生だっらたが、なんとなくカイシャというものの本質を感じ、将来はカイシャインというものの行末の恐ろさを知った。他人の好き嫌いで人生を破壊される。カイシャで働くのは嫌だなと感じる様になった。
さらに生活の大半を会社生活に投じ、夜10時過ぎまで働き、会社の人を毎週毎週豪華な食事でもてなし家族の様に扱っていたのに、結局裏切られて部署解体後はゴミの様に扱われる父をみて、自分は他人の冷たさを知った。人をいまいち信用できない理由はあの体験にある。父は結構狂ってしまったのだ。
父には二面性はあったが基本お人好しのお坊ちゃんであった。自分が世の中は魑魅魍魎で、お人好しは所詮食い物にされるだけだと考える様になったのは、父のあの体験を見ていたことが理由だ。自分の様な団塊ジュニア世代が冷たいと言われるのは、似た様な体験をした人が多いからではないか。
だから自分は良い顔をして近寄ってくる人間は信用していないし、お世辞や媚の類もすぐにわかる。そして友達の数は少なく、信用する人と長く付き合う。父は沢山の人と仲良くしようとしたが、相手は利害関係ばかりみているのだ。
父は自分のことをうちの親父に似ていると言っていた。お爺さんは海軍省の士官で戦後は防衛庁だが生粋の職業軍人で、冷徹かつ笑いのセンスがなくリアリストだった。彼は戦後戦犯になり死刑は免れたが、おそらく戦中何が人間の恐ろしいものをみたから楽天的でいられなかったのだろう。
自分はお人好しでお坊ちゃんの父が、人に利用され失墜する様を観察していたために、多分お爺さんの様なリアリスト的な視点があったのだと思う。父は楽観的だが、自分は実はひどい悲観主義で他人も信用しない。父のお気楽さには呆れることが多かった。
父がお人好しであり他人を信用しすぎたことによる失墜、さらに会社に裏切られたことにより気が触れたこと、これにより自分は実はカイシャというものの存在、さらに日本的な労働感、つまり擬似家族を信用させやりがいを艤装するやり方には恐るべき深さの憎悪を抱いているのだ。
だから自分の文章では、赤の他人にであるが、個人の独立、自主学習、財政的独立、組織や家族に依存しないことを繰り返し繰り返し述べている。人は繰り返し言わなければ学ばないからだ。父の様に他人を信用し、カイシャを信じた人間は失意のうちに悲惨な目に遭う。家族は露頭に迷う。
父の周囲で生き残り富を手にしたものは皆営業系で口がうまい人間だった。理系で頭の良い人間は、たとえ東大や兄弟を出ていても口の上手い人間に出し抜かれ酷い目にあっている。だから手に職があり頭が良い理系の人ほど独立しなければダメなのだ。
父は私が幼稚園児の頃から米軍基地の先生に英語を習わせました。海軍士官の祖父から米軍の軍事力の話を聞き、米国の技術を研究してきたからこそ英語の必要性を実感していたからでした。彼は英語が苦手で海外に興味があり夢を私に託しました。メルマガには父の意思を込めてあります。 t.co/UjTwRRR0qV
私がメルマガや著書で英語学習をやたら取り上げる理由は父のことがあります。彼はバブル崩壊で左遷されましたが英語が苦手なために外資や海外に転職することができなかった。知識やスキルがあっても汎用性が高い英語という武器がなかったから危機を避けられす。皆さんには武器を身につけて欲しい t.co/b4GlDAZV0z
私の父は頭は良かったですが消費好きなバブル期サラリーマンで資産形成の意味を理解せず晩年はお金で大変な苦労をしました。同じ苦労をする人を減らしたいからメルマガではリスク低い資産作りについて書いています。会社も国もあてになりません。 t.co/dEYAJVysJb
父は東北の震災の時はもう認知症がすすみはじめていたのだけど、原発が爆発してあんただけは逃げなさいと母に言われ、イギリスに戻る日を早めて成田に行く途中に父の家に行っらが父は状況を理解していて、原発の仕組みや放射線について冷静に語っていたな。さすが物理の人だ。
父の家は千葉にある。あの時もう二度と会えないかもという気分だったから千葉の外房の3月の日差しの強さ、風、ガソリンスタンドに列をなすトラック、マスク姿の外国人、弟の車の燃料計を思い出す。ガソリンがなくなるリスクを承知で弟は送ってくれた。成田まで。父はまたなと言っていた。
父は震災の直後、自分で掘った巨大な鯉の池に落下し、動けなくなり低体温症で入院した。あの後認知症が悪化した。木の枝を切ろうとして落ちたらしいが、地震で何らかの環境変動があり、脳に影響があったからかなと思う。あの直後、なぜか井戸水の池の温度が上がり錦鯉は全滅した。
認知症が進んだ父は問題行動も多かったが、悲しくも何となく笑える行動も多かった。デイサービスは婆さんばかりで嫌だなあと言ってしまったり、若いヘルパーさんばかりだからキャバクラ気分で楽しそうだったり。いつも笑っていた。親戚の葬式でも楽しそうでお前は大嫌いだったんだよと爆笑していた。
父は左遷先の協力会社がある田舎の村周辺でも新しい友達を作ろうと熱心で、どこからか錦鯉の養殖業者さんを探してきて仲良くなっていた。父が倒れた時も業者さんが様子を見に来てくれたのだ。父が友達を作る能力はズバ抜けている。
父が旅立ち自分の失われた20年が終わろうとしている。バブル崩壊後の平成の終わり。あの喪失感、斜陽、挫折、悲しみ。コロナ後は再生の時代になるといい。
父は東京理科大で応用物理を学び学生時代はコピー機の研究をしていましたが自動車会社ではディーゼルエンジンの小型化などを研究開発する技術者で、80年代にはディーゼルエンジンの世界最速記録トライアルのチーフエンジニアをやっていました。これはその記事です。
t.co/r9vMvDuaUt
父がエンジンの研究開発をやっていた頃は日本はイケイケドンドンで北米や欧州に車を売り込んでいた頃でジャパンアズナンバーワンと言われていた頃でした。エンジンの排気ガス規制が厳しくなり日々その研究をやっていた様です。官庁との折衝や海外メーカーとの交渉もありました。
母は70年代前半に製図工として父と同じ会社に入り、開発設計部に配属されたので知り合って結婚したそうです。当時女性専門職は少なかったのですが、日本の自動車会社は女性社員も丁重に扱っており実践力でした。差別的な日本企業云々の姿はそこにはありませんでした。
私は父が自動車会社の技術者だったから近所に住む人も皆同じ会社や系列会社、他社だけど自動車会社など勤務で、皆製造業の人でした。会社の夏祭りも夏のキャンプも近所の人も一緒。まるで小さな村でした。今の個人主義で競争だらけな社会とは違う共同体。給料も皆同じぐらいで社会主義でした。 t.co/MtYY6DQAw0
コロナで日本に転居するという海外友人がで始めた。イギリスからニュージーランドに転居した知り合いもいる。イギリスや欧州、アメリカのコロナ対応は最低だった。めちゃくちゃだった。やはり日本に移住を考えるべきかもしれない。
コロナの他に自分が怒りを感じているのは子供の教育だ。イギリスの教育は思いやり、協力、感性といった人間に最も大事なことを教えない。親や子供は実に自己中で品がない。進学校でもだ。日本は闘争心はないが子供は皆優しく学校も安全だ。子供には本当は日本の学校に通わせたい。
父は現役時代、金融業やマスコミは社会の役に立たない、世の中を変えるのは技術だと繰り返し述べていました。まさにその通りだと思います。コロナで特に実感です。彼は特に金融業が嫌いでした。 t.co/fmcJrzcGPy
父が亡くなる前に、母と和解して欲しかった。だった一つの些細な願いだったが無理だった。父は話ができないほど認知症が進んでしまったから。
父の認知症が進んでから、母は家族で昔行った場所に行く様になった。しかし昔は栄えていた牧場はすっかり人が来なくなって小品が減り、昔行っていたダイクマや商店街、ケーキ屋、魚屋、割烹料理の店は閉店していた。画像が仲良かった頃の思い出が次々に消えて行く。高齢化だからだ。
家族で行っていた公共施設はバブル最盛期に建てられたものが多い。しかし今やメンテ費用がないからどこも錆だらけで人も来ない。子供もいないから誰もいない。30年経って人は減り日本にはお金がなくなった。私の家族が坂を下っていく様と重なる。
父は海外の技術も研究していたが昭和の自動車参議の日本人には海外が憧れだった。父は貯金をはたいて自分をアメリカに留学させてくれ、その後イタリアで仕事が決まるとぜひ行きなさいと送り出してくれた。その結果が本になってたくさんの方に読んでいただけた。父もびっくりだろう。 t.co/iap6sxMLlM
父と小学生の自分は交換日記をやっていた。そして父は毎週マガジンとジャンプを買っていて自分は4歳の時からよんで漫画で字を覚えた。その結果娘は本を書く人間になったが、かぼちゃワインを読んでいた小学生が本を書く様になるとは思わなかったろう。 t.co/iap6sxMLlM
自分が親になってわかったんだなあ。釣りに行った時、スキーの時、土曜日に学校に迎えに来た時、ラーメン屋、新宿にお出かけ、川遊び、ボール投げ、初めて自転車に乗れた時、運動会、父がなぜいつも笑っていたかを。
自分が一番嬉しかったもの。父が仕事の帰りに買ってきたセブンイレブンのアイスクリーム。当時はコンビニができ始めたばかりでアイスはその場ですくってくれて、上にコーンのカップがついていた。車で10分の距離。きっと急いで帰ってきたんだね。今あの店は倉庫になっている。
家族みんなで出かけた31アイスクリームの開店日。日本にできたばかりだった。湘南地区一号店。アメリカが来たみたいだった。父はラムレーズンを頼んだ。ラーメン屋じゃないのにお姉さんに大盛りを頼むよと。聖子ちゃんカットのお姉さんは笑っていた。今その店はない。
近所に開店したばかりのお寿司屋さん。並んで記念の湯呑みをもらった。40年前だ。父はずっとその湯呑みを使っていた。その店は15年ぐらい前に閉店した。
クリスマス。我が家は毎年近所の肉屋さんで鶏を頼んで丸焼きをつくった。家を建てた時に当時高価だったリンナイの巨大なガスオーブンを付けたからそれで焼いた。多分当時30万円ぐらいしたのだ。昭和53年だ。その肉屋さんは20年ぐらい前に閉店しオープンはサビだらけだ。
クリスマス。我が家は巨大な本物の木のツリーを飾った。父はどこからか買ってきた。家の中はアメリカ人のクリスマスみたいだった。貧しい母子家庭育ちの母には夢のようなクリスマス。バタケーキで近所の子供を招いてパーティーをやった。今その子達の何人かには孫がいてケーキ屋は10年前に閉店。
父と母は職場結婚だが当時の日本は今より格差がはっきりしていて父の様な開発者は皆見合いで同じ階級の大卒お嬢さんと結婚した。母は貧しい母子家庭育ちで職業訓練学校卒だった。父は母の育ちを承知で慣例に従わなかった。父は地方出身者や高卒の人を好んで付き合った。
父の父親は海軍士官、父には6人の兄弟姉妹がいて全員超有名私大を出ていてお姉様、お兄様、お父様という言葉を使う。しかし父は一年時作業着にビーサンで母子家庭の娘と結婚し、ライン工だらけの地区に家を買い、農家や大工と友達になりたがった。お爺さんは彼のスタイルに怒っていた
父はみるからにお坊ちゃんなのだが、庶民や労働者階級に擬態したがり、言葉や服装をそれ風にし、なんとか溶け込もうとしていたが、いつもみすかされていた。あれは彼なりのソーシャルエンジニアリングで階級闘争だっ他のかなと思うのだ。何かエリート的なものへの反発があった。
母はアル中で暴力を振るう父親がいて、お婆さんは離婚して、靴さえ買えない母子家庭で育った。ただ努力家だったから職業訓練学校に入り製図工になり父の会社に滑り込んだ。お坊ちゃん育ちの父にはすごく珍しい人だったのだろう。父は母に高価な家電や車を揃えたが最初は救済するような気分だったのかも
ただし階級間の差はおもった以上に厳しく、時間が経つにつれ、父と母はお互いの考え方や趣味、お金の使い方で徐々に溝ができて、父の仕事がうまくいかなくなると口論が絶えなくなった。父はお坊ちゃんだから金遣いが荒く、母は倹約家で堅実なのだ。父は見栄っ張りでもあり社交が派手だった。
さらに母が嫌がったのが父のギャンブル癖だった。父の実家はイギリスの中流以上の家の様に皆ギャンブルが大好きだった。ところが母の方は離婚した父親に酷い目に遭わされているし、堅実な庶民だからギャンブルは誰もやらないし皆大嫌いだった。親類達は彼のギャンブル癖を批判した。
父は会社で良い人であったが仮面を被るストレスをギャンブルで発散していたらしく、競輪場に弟を連れて行き、何年かに一回パチンコ屋でフィーバーすると電話で我々を呼び出してなんでも好きな景品を選べと言った。それまでに何十万円も注ぎ込んでいるパチンコ屋の景品などバカらしく情けなかった。
父の金使いは時に非合理的で昭和55年に中古でも40万円ぐらいするマランツのステレオを買い、その何年か後にはレーザーディスクにビデオデッキを揃えるのだが、別に音楽にも映画にもさほど興味がなく、レコードは3枚しかなくDVDは2枚しかなかった。ローンを払うのはレストランのウェイトレスの母だ
この様に父は割と無計画に金を使うため、常に尻拭いをするのは母だった。母は父の散財のためにレストランで仕方なくウェイトレスをやっていたが、郊外に製図工の仕事がなかったからだ。低賃金で最低の職場だった。母の給料は父の尻拭いやお客の飲み食い、子供の習い事に消えた。
その様な状況だから家には金がなく母は病院代を近所の人に借りたりしていた。母子家庭で苦労したから独身時代は給料をかなり貯金し、服は自分で作っていた様な努力家だが、彼女の貯金は結婚後父の散財に消えてしまった。母はずっと金のことで悩んでいた。
父は結婚する時一円も貯金がなく、親には競馬で負けた際の借金があった。結婚式の費用も新生活の費用もゼロだった。給料は全て車や競馬やダイビングに使い、新生活に必要なものは母が貯金で買い、父より年下で溶接工をやっていた母の兄が大金を出して工面した。母の家は母子家庭で貧しいのにだ。
母は結婚する時点で父の金銭感覚に疑問を持つべきだったと言っていたが、なんとなく面白い人だから面白さを優先してしまった。しかし何十年に亘り彼の金銭感覚に悩まされるとは思わなかったのだろう。家人は父と正反対で堅物で金には実に堅実だ。
父は新しいものが好きで、新規開店をみつけるとすぐに買い物する。会社の横に小僧寿司ができた時は初日に買いに行き皆でワイワイ食べた。持ち帰り寿司が珍しかった昭和50年代の話だ。今その店はない。
父は新し物好きだから、回転寿司や焼肉食べ放題もできてすぐに行き始めた。これも昭和55年ごろだ。寿司を安く食べられる、焼き肉が食べ放題は革命的なことだった。当時の店はもうなくなっており、中年になった私や弟は血糖値や血圧計が心配だから沢山食べなくなった。
父の認知症初期の頃だ。様子を見に来た我々や親戚達に良い店があると連れて行ったのは、20年以上前、私が小学生の頃に行っていた食べ放題の店だった。流行が去り古ぼけていて倒産寸前だった。沢山食べられるぞ、すごいだろと少しボケていた父は大はしゃぎだった。一番幸せな頃に戻っていたのだろう。
父の認知症が進み始めた頃、弟と私で様子を見に行った。しかし大雨の中、ぶつけまくりの車で父は走り回り、寿司を食わせてやるとお気に入りの寿司屋を探したが場所がわからない。仕方なく田舎のスーパーで稲荷寿司を買い、食え食えと熱心。子供らに寿司を食べさせたのが幸せな思い出だったのだ。
さらに父の認知症が進んだ頃、7ヶ月の孫を連れて里帰り、父の一人暮らしの家にいった。初めての対面だ。父は大層喜んだが認知症が進んでいたからボケている。乳児の孫に一生懸命に自分のおやつのどら焼きを食べさせようとする。まだ食べないよと言っても。食べさせることが一番の幸せだったんだな。
遺影を用意しなければならないから写真をみていた。写真の大半は実家にあるけど何枚かいいのが手元にあった。自分の写真のファインダーの向こうには父がいた。親になったからわかる。自分の写真を見て当時の父の気持ちがわかる。
今で撮った何気ない写真。部屋はゴミだらけで服もひどい。でも楽しそうな表情だ。楽しかったんだな。久々に会う父は。もっと会いに行けば良かった。
父と最後にクリスマスとお正月やったのはいつだろう。クリスマス、こっちの実家のお付き合いがあるからずっとずっと帰れなかった。先月の前半なら帰れた。
介護、ほんとなら自分がやるべきだったなあ。ごめんな、施設入れてしまった。うどんやチャーハン、食べさせあげるべきだった。ごめんね、わがままで、何も考えずに外国来てしまった。ごめんね。最後すら会えなかった。さよなら言えなかった。ごめんねお父さん。いかないで。おいていかないで。
まだ色々わかるうちに、言えば良かった。ありがとう。楽しかった。忘れないよ。ずっといるよ。ごめんね。毎回ごまかしてしまった。なんか気恥ずかしくて。遅すぎたね。私いつも遅いんだ。悩んでるうちに遅くなってしまう。
お父さんごめんね、わがままいわなければ、あんなに働かなくてすんだ。無理したね。無理したから倒れてしまった。教育費、生活費、仕事なんかやめて良かった。皆で働けば良かった。お金も車もいらなかったよ。ごめんね。一番大事なものがなくなっちゃった。
父が好きだった桂花ラーメンです。コロナリスクはありますが、弔い代わりに食べに行ってくださると嬉しいです。太肉麺が好きでした。
t.co/SJA9dR6S9w
父とランチに行っていた湘南台のお店です。フレンチです。弔いに食べに行ってくれたら嬉しいです。
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父が勝手に家を買って出て行ったのだけど、一人暮らしの家の棚には私が小学生の時、みんなでキャンプで使った食器やコップが並んでいて、寝室には小学生の時にあげた紙粘土で作ったベン立てが飾ってあった。やっぱり寂しかったんだな。本当はみんなで暮らしたかった。一番幸せな時みたいに。
認知症が進み始めた父の記憶は82-85年ごろに戻っていた。一番楽しかった頃の記憶だったんだね。覚えているよ、みんな覚えてる。忘れてないよ。ずっと忘れないから。キャンプ、夏祭り、いちご狩り、自転車、畑仕事、川遊び、ドライブ、ラーメン、31、回転寿司、パソコン、皆覚えてるから。